アンビリバボーな昭和のくらし(その2)

 

前回に引き続き、現在の20歳以下の人がぶったまげるような昭和の

「あの頃」(30〜40年代)のくらしをご紹介いたします。

 

 

ティッシュペーパーがなかった

重い花粉症で悩む友人T君は「俺なんかひどい日には、ティッシュ1箱使っちゃうぜぃ」と

自慢していたが、昭和の「あの頃」には’ティッシュペーパー’は存在しなかった。

(もっとも花粉症という病もなかったけど)

調べによるとティッシュペーパーは昭和39年(1964)にアメリカから渡来した商品(クリネック

スティシュー)であるが高級品だったため、庶民に普及するのに時間がかかったらしい。

今では何のことはないが、ティッシュペーパーは「ポップアップ式」といって次から次へと

紙が出てくることすら珍しかった。

ティッシュペーパーが日常品となるまでは「ちり紙」を持ち歩いていた。

「ちり紙」というのは、ゴワゴワした目の粗い質の悪い紙で、大きさはB5くらいで別名を

「はな紙」「便所紙」とも呼ばれていた。したがってティッシュペーパーが上陸した頃は

「高級西洋ちり紙」という言い方もあった。

 

小学校の頃、女子のあいだで(名前は覚えていないが)香りのする&ファンタジーな絵の

ついたちり紙を集めることが流行ったことがある。

女子から人気のあった(←ココがポイント)はすぴーはこの香りのするちり紙をよくもらったが

使い道がわからなくて、結局、鼻をかんだが罪悪感が残った。(^^ゞ

 

 

トイレはぼっとん便所が当り前

バキュームカー

ちり紙といえば、21世紀に語り忘れていらないのが、「汲み取り式便所」の存在である。

はすぴーの住む足立区は23区の中でもっとも下水が遅れていて、水洗便所が完備するのに

時間がかかったらしい。実際、はすぴーの実家はつい数年前までは「汲み取り便所」だった

のである。「汲み取り式便所」とは水洗便所の対義語で、ウンコを水で流さないで、そのまま

蓄積するトイレである。別名「ぼっとん便所」とも言う。夏になると悪臭とともに中から銀蝿が

飛んでくるのが特徴だ。

誤ってよくスリッパを中に落としたが、これは多くの人が体験したようだ。

一般家庭では、ぼっとん便所の入り口付近に手を洗うタンクのようなものがあり、その中には水が

入っていて 下のほうに3センチくらいの棒みたいなのがあり、そこを押すと 水がチョロチョロ

と出る仕組みになっているものがついていて、水道で手を洗うようになったのは

もう少し後のことである。

足立区ではつい2〜3年前まで「バキュームカー」を頻繁に見かけた。「バキュームカー」

といっても現在20歳以下の人は知らないと思うが、要するに’ウンコ収集車’だと思ってくれれば

いい。直径10センチくらいのホースでそれを吸い取り、各家庭を訪問しタンクに貯蔵するのだ。

ホースの先には野球で使う軟球がフタの代わりをしていた。作業中はタンクについてある

煙突のようなものから煙を出していたが、その臭いは文字では表現できないほど

超強烈なものであった。(うっ、思い出してしまった)

 

水洗便所は昭和40年代の半ばあたりから一般的になったように思う。今のトイレは水で流す

時にレバーを回すかボタンを押すかであるが、当時は水槽が上の方にあったので、

鎖状のロープを下に引っ張った。

ぼっとん便所では、自分のウンコを見ることはなかったが、水洗便所の登場で自分のものを目に

することになる。「おっおっ、今日はビッグだぜぃ〜(^_^)v」「あの赤いやつは昨日、食べた

ニンジンだろうか」と観察するようになったのは当時の日本人のほぼ全員だったのではなかろうか。

 

現在、私たちが普通に使用している腰掛けてやるタイプは「西洋式トイレ」と当時は呼ばれて

いた。これはいつ頃から普及したものだろうか。はすぴーの経験では昭和50年代に入って

からではなかろうか。現在でも病院や図書館では西洋式以外に和式も備え付けている場所がある。

これは好みで問題であり、特にお年寄りは「西洋式なんざ踏ん張り、いや糞ばりがきかねぇ〜で

いけねぇ〜。日本人はウンチングスタイル(ウンコ座り)が一番でぇ〜。てやんでぃ」とか

「けっ、他人がケツを乗せたところに座るなんざ、んなことできるかい!てやんでぃ」と訴える

人が多いそうな。(なぜかお年寄りは全員が江戸っ子の大工さんみたいだが、まっ、いいか)

事実、昭和45年(1970)の大阪万博で西洋式トイレをはじめて見た人はその使い方がわからず

便器を逆にまたいだり、便器の上にしゃがんでやったという人があまりにも多かったのだ。(マジ)

 

 

ジーンズをはくのは不良だ

はすぴーが小学6年(昭和45)の時、林間学校(足立区では日光移動教室といった)に行く際の

注意事項として、「Gパンをはいてきてはいけない」というのがあった。

Gパンは最近ではあまり使わない言葉だが、ジーンズのことであり、当時Gパンをはくのは

不良だと言われていた。理由はいまだにわからない。(どなたか教えてください)

いつからジーンズと言うようになったのだろうか。少なくとも「太陽にほえろ」を放映していた

昭和50年代まではGパンだった。松田優作、演じるところの「Gパン刑事」はワイルドな感じで

カッチョよかった。特に殉職シーン「なんじゃい!これは〜」はあまりにも有名。ところがこれが

「ジーンズ刑事」だと軟弱なナンパ野郎な感じがしてしまう。

殉職シーンも「なによ〜これ うっそぉ〜♪」となりかねない。(笑)

はすぴーが高校生の頃にはGパンは普段着となっていた。この頃、ベルボトム(別名ラッパあるいは

パンタロン)という裾の広がったGパンにロンドンブーツというかかとの高い靴(厚底靴のようなもの)

が流行ったが、あらためて思い出すとかなりダサイ。

 

ちなみにはすぴーが中学生の頃、ラコステ、クロッコダイル、パーカー、、、の刺繍の入った靴下を

はくだけでも不良扱いだった。またクラスの半分くらいの男子はギターを持っていたが、当時

エレキギターを弾くやつは不良のレッテルが貼られた。

またゲームセンターに入ることも不良だったし、髪の毛が耳をかぶるだけで不良、学校に時計を

持ってくると不良、自転車で二人乗りをして不良、そして万引きをしても不良だった。(←当り前か)

 

 

乞食がいた

はすぴーが幼稚園の時だったから、昭和30年代の後半の頃まで駅前や繁華街に「乞食」がいた。

乞食というのは、みすぼらしい格好をしてゴザの上に座り、「右や左の旦那さまぁ〜どうかお恵み

をくださりませぇ〜」と訴え、他人から金銭を恵んでもらう人たちのことなのだ。

別名「おもらいさん」とも呼ばれていた。

働きもせず、こんなことでよく暮らしていけるのか不思議だったが、ゴザに置いてある空き缶の

中には5円玉やら10円玉が結構入っていた。

中でも「家族総出」で乞食をやっているファミリーもあり、幼い子どもを餌に同情を

乞うていたりした。

TVドラマ「家なき子」の名セリフ「同情するなら金をくれぃ〜」はこれが原点なのだ。

 

乞食とは関係ないが、繁華街には戦争で負傷し、手足のなくなった人(傷痍軍人)がやはりゴザを

敷いて空き缶を置いていた。軍服を着て、たいてい2人でペアになっていて、手足のない

人は頭をうな垂れ、もうひとりはアコーデオンで「荒城の月」を弾いていた。

この場合「おお牧場はみどり」「森のくまさん」「スーダラ節」あたりのC調メロディ

だと場の雰囲気とマッチしない。

幼いはすぴーは、元軍人さんをよく見ようとしたら、母親から「目を合わせてはいけません」

と注意されたことを思い出す。(野良犬じゃあるまいし、、、)

このことは、はすぴーが記憶する唯一の「戦争」の名残りだ。

 

 

ヘアリンスはなかった

調べによるとヘアリンスが登場したのは、昭和40年(1965)だ。リンスというのは英語で「すすぐ」

という意味だそうだ。考えてみれば、はすぴーがリンスを使うようになったのは中学になってからで

それまではシャンプーだけだったし、さらにもっと幼い頃は石鹸で髪の毛をゴシゴシと洗っていた。

最近、白髪が目立つようになってしまったのは、この石鹸ゴシゴシの後遺症かも?

あの頃、母親は粉のシャンプーを使っていたが、容器に入った液体シャンプーは当時からあったはずだ。

というのも、このシャンプーの容器に水中モーターをつけて銭湯で遊んだことを覚えているから。

 

ちなみに、はすぴーはエメロンシャンプーの香りが好きだ。性を意識するようになった中学1年の時

好きな女の子のそばに寄ると髪の毛からいい香りがして、エメロンを使っているということを知った。

はすぴーは姉にエメロンを使うようにお願いして、風呂場にあるエメロンシャンプーの臭いをかいだが

女の子のいい香りは全然しなかった。(ナンデヤネン)

 

 

 

1ドルは360円で固定だった

パートリッジファミリ

こんななぞなぞがあった。「車のハンドルはいくらでしょうか」

答え:ハンドル(半ドル)は1ドル360円の半分だから180円。

ドルは現在のような変動相場制ではなく1ドル=360円と決まっていたのだ。

昭和46年(1971)のドル・ショックによって固定相場から変動相場に移行された。

 

現在、海外旅行をする人は18百万人を越えているが、昭和46年では96万人、

昭和40年で16万人、はすぴーの産まれた昭和33年では5万人だそうだ。

そういえば「アップダウンクイズ」の賞金は「豪華ハワイ旅行」で海外に行くことは庶民に

とって夢の夢のようなステイタスであり「憧れのハワイ航路」なのであった。

はすぴーがガキの頃、テレビで「奥様は魔女」「ルーシーショー」「それ行けスマート」

「エド・サリバンショー」「名犬ラッシー」「パートリッジファミリー」などアメリカンな番組を

やっていたが、そこは共通して広いリビング、大きなソファー、豪華なシャンデリア、夫婦の寝室、

子ども部屋にはおもちゃの山、芝のある庭、外車(←当り前か)があり、これが普通のアメリカの家庭

だと聞いてぶったまげたことを昨日のように覚えている。

あれから35年の歳月が流れたが、いまだに追いついていない。。。。とほほ

 

 

FM放送はなかった

ラジオははすぴーの生まれる前からあったが(トランジスターラジオは昭和30年)、AM波と短波

だけで、FM波はなかった。FM放送がはじまったのはいつ頃だろうか。

中学の時にはFM放送は既にあり、当時「FMファン」「FMレコパル」という音楽雑誌があり、

録音したい番組をチェックしていた。

東京地区では局番は「FM東京」と「NHK−FM」の2つしかなかった。これはしばらく2局体制

で「J-WAVE」やその他のFM局が始ったのはまだ最近のような気がする。

(その後の調査でFM放送が本格的に開始されたのは昭和44年3月だと判明)

 

録音は今ではボタンを押せば済むことだが、当時はラジオやレコードプレイヤーに直接、マイクを

向けて録音するのだ。だから音楽を録音していても、周囲の音まで一緒に入ってしまう。

レコードを録音している時に決まって「おーい、ごはんですよぉ」とか「ちょっと音がうるさいわよ」

なんて叫ばれてしまい、几帳面ははすぴーは最初からやり直すことになる。

従って録音する際には家族の全員に「いいですか、今から俺はレコードを録音するので、静かにして

よね。6時まで呼びにこないでね」と宣言してから行うことが当時の常識であった。

しかしこういう時に限って電話がかかってくるのだ。

 

録音といえば、カセットテープレコーダーの前に「オープンリール」という録音機があり、それは

超高級品で普通の家庭ではあまり見かけることはなく、チビまる子ちゃんに出てくる花輪くんのよう

なお金持ちの家にしかないものだった。そもそも当時、自分の声が録音されて何度でも聞くことが

できるということが珍しかったのだ。

科学博物館にこの録音機があり、自分の声を聞くだけのために順番を待つくらいの価値があった。

↑オープンリール。高級なので懸賞品として扱われた


 

アンビリバボーな昭和のくらし(その1)へ   (その3)

 

(原稿:2001.5.4)

 

「あの頃」のセピア色の想い出 

 トップページ